なぜ勉強するのか?勉強好きな私が勉強をする理由

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なぜ勉強しないといけないのか?

という問いに対しては、勉強が自分自身の現実を変える唯一の手段だから、と答えました。

しかし、

これはあくまでも道具として勉強を活用する場合の話です。

何か、実現したい理想があって、そこに到達するための手段として勉強が必須であるという内容です。

でも、今回は「なぜ勉強しないといけない?」ではなく

「なぜ勉強するのか?」について書いていこうと思います。

似ているようで全く違う問いになりますね。

前者は勉強に消極的ですが、後者はむしろ勉強に対して積極的、自発的です。

私も元は勉強嫌いでしたが、今ではすっかり勉強が好きで、会社の昼休みでも自分の好きな勉強をして癒されているくらいです。

勉強嫌いからすれば、気が狂っているように見えるし

勉強好きからすれば、共感できることかもしれません。

今回は、そんな勉強好きの私なりに、「なぜ勉強するのか?」という問いに対して考えていきたいと思います。

目次

快楽としての勉強

「なぜ勉強するのか?」と聞かれれば、それは単純に「勉強がしたいから」という答えになります。

そこで「勉強がしたい」とはどういうことなのかを、深掘りして考えてみると、

勉強すること自体が私にとって快楽だから、という答えに行き当たりました。

ご飯を食べて美味しいと感じるように、好きな映画を見て楽しいと感じるように、休日に少し遠出をしてドライブした先で普段見ないような大自然の壮大な景色を見て美しいと感じるように、

私は勉強をすることそのものに快楽を得ています。

人は何か楽しい事をするとドーパミンという快楽を感じる物質が脳内で出るので、また同じ行動をとってドーパミンを出そうとするそうです。

人と会話をすることが好きな人は、誰かと会って話をしているときにドーパミンが出ているし、本を読むのが好きな人は、大好きな本を手に取って、その物語の世界に没入しているときにドーパミンが出ているのでしょう。

私は勉強も好きですが、大好きなゲーム、ファイナルファンタジーをやっているときや、仕事でプログラミングをしているときもドーパミンが出ていると思います。

プログラミングがメインの仕事ではないのに、熱中しすぎて、本当に今やらなければいけない仕事がおろそかになるくらいなので本当にドーパミンとは恐ろしいものです。

というわけで、勉強好きな人が勉強をしたいというのは、何か目的があって勉強をしているのではなく、勉強をすることそのものが楽しくて仕方がないということになります。

どんな勉強も好きというわけではない

そんな私でも、やはり楽しめない勉強があります。

それは、やりたい勉強ではなく、やらなくてはいけない勉強です。

中でも受験勉強を始めとするテスト勉強の類は、私には到底無理なんだということが分かりました。

やりすぎると心が死にます。

実は自分のことを勉強嫌いだと思っている人も、私と同じタイプなだけで、実は勉強好きの可能性があるのではないでしょうか?

私は根本的に、誰かに物事を強要されるのが嫌いです。

学生の時代は、どこかのお偉いさんたちが学習指導要領で決めた範囲を勉強しろといい、その通りの勉強についていけないものは成績が悪いという評価を下されます。

でも、私は自分で自分が勉強するべきことを決めたいし、誰かに評価をされるために勉強しているわけではありません。

私は勉強自体が楽しくて勉強をしているし、何か目的があって勉強をするとしたら、自分がやりたいことを実現するために勉強をします。

ロケットを作りたいと思えば、航空宇宙工学をやればいいし、宇宙の真理を理解したいと思えば、宗教学や哲学、より高度な物理学に手を出せばいいのです。

ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ、マーク・ザッカーバーグのようにITで世界を動かす人物を目指すなら、今すぐプログラミングを始めればいいのです。

何もかもを低いレベルで取りそろえたような、学習指導要領で決めた範囲の勉強なんかを網羅的にやらされるより、よっぽど有意義な時間の使い方になると思います。

とは言え、学校の勉強だって、勉強の基礎体力を養うためには大切なんじゃないの?という意見も分かります。

そういう考えをもって、しっかり学校の勉強をする人たちを否定するつもりはありません。

要は、自分で決め、自分で学ぶということが、勉強を本当に楽しいと感じるには大切だということです。

親に言われたから、先生に言われたから、なんて、そんなやらされ感ありありな理由で、言われるがままやってしまうと、勉強ってとてもつまらないものになってしまうよ、ということです。

勉強は贅沢品

今でしょ!で有名なあの林修先生は、勉強は贅沢品だと言っていました。

私もこれには同感です。

学生の頃の感覚で嫌々勉強をやらされている人にとってはピンと来ないかもしれませんが、勉強をするにはとてもお金がかかります。

学費ももちろんそうですが、たとえ学校に通わず独学であったとしても、勉強をするために費やしているその時間は、仕事をすることに使えたかもしれないからです。

1時間勉強をすれば、1時間仕事をしない(=1時間お金を稼がない)ということになります。

経済学などではこのように、あるものを得るために放棄したもののことを「機会費用」と呼びます。

1時間分の仕事が出来たかもしれないという機会費用を払って、1時間の勉強をするのです。

ということは、仕事が忙しすぎて、寝る時間しか残されていない状態になれば、もちろん勉強なんてやっている場合ではありません。

生活をするのに十分なお金の蓄えがあれば、あなたは仕事をしないという選択を取ることもできますが、毎月かつかつで、ひと月働いたお金をひと月の生活のために全て使わざるを得ないという状況だと、勉強をしている時間なんて全く取れないのです。(こういう社会人は多いと思います。)

かつて、勉強は遊びそのものでした。

数学者が多いヨーロッパの中世の人々や古文の世界によく出てくる、教養に溢れた和歌を交わして遊んでいるようなあの世界観は、そのほとんどが労働者階級ではなく、その時代の貴族たちだと聞いたことがあります。

奴隷や農民が食料などの生きる糧をいつも生産していたからこそ、彼ら彼女らは勉強をして遊ぶことが出来たのです。

勉強の魅力

私にとって勉強とは、私を取り巻く世界を見る心の目の視力を高める行為です。

かつてニュートンがりんごが落ちる瞬間を見て、その背後に存在する引力を見出したように、

りんごが落下している瞬間を、ああ、りんごが落ちているなと、ただ感じる人と、

りんごの落下から、その背後に存在している物理法則を考える人とでは、世界を見る解釈の深さが違います。

私は目に見えている表面的な現実だけではなく、その背後に存在する、目には見えない世界を見るための心の目を鍛えるために勉強をし、それがたまらなく楽しいと感じます。

自分の住んでいる町だって、なにも知らずにただ過ごすのと、

その町の歴史を学んで、どんな成り立ちで人が集まって過去にどんな変遷をとげた結果の今になっているのかを知ることが出来れば、その景色ひとつひとつが全く違った、意味のあるものに感じられるはずです。

アニメ好きな人たちが、自分の好きな作品に出てくる場所を巡って聖地巡礼をするのと同じ感覚ですね。

最後に私の好きなアイザック・ニュートンの格言を引用して終わりとします。

私は海辺で遊んでいる少年のようである。
ときおり、
普通のものよりもなめらかな小石や
かわいい貝殻を見つけて
夢中になっている。
真理の大海は、
すべてが未発見のまま、
目の前に広がっているというのに。

— アイザック・ニュートン —
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この記事を書いた人

6浪したり、フリーターだったり、文系なのにガリレオに憧れて物理を独学してみたり、紆余曲折を経て会社員になった、中二病が治らない30代。「やりたいことが分からない」が分からない。いつも「かっこいい!」と感じる何かに突き動かされて多忙な毎日を送る。

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